「いだてん」を語ろう~歌舞伎役者・中村勘九郎
前半の主人公・金栗四三を演じる勘九郎は、第1回のラストまで登場しない。(実は冒頭に登場しているのだが、顔は写らない)
彼は初回のクライマックスで、「いだてんだ!」の声にのって登場する。激しい雨の中、四三の顔には帽子の染料が流れて、隈取りのようになっている。歌舞伎役者らしい登場だが、その後、何度も勘九郎に見とれることになるとは、この時は想像できなかった。
とにかく、体が自由自在に動くのだ。走るシーンはもちろんだが、動きが伸びやかで、見ていて心地よい。そして、可動域がとてつもなく大きい(ように見える)。若き志ん生を演じる森山未來の身体能力もすばらしいが、こちらはシャープな印象が強い。それに対して、勘九郎の動きは空気を抱きとめるようなたおやかさがある。これは、舞か? ダンスではなく、日本古来の舞。
それから、表情。顔の小さな筋肉一つ一つをコントロールできているのか? 睫毛一本まで自在に動かせるのか? と、驚かされるほどの微妙な表情。そこからの、破顔一笑。あるいは、涙。その一瞬一瞬が目に焼きつくのだ。顔全体をくしゃくしゃにした笑顔。笑みを消し、自分が進むべき道をキッと見据える顔。これは、歌舞伎の見得ではないか?
今は舞台も映像も兼ねる役者さんが多く、舞台の人がテレビに出ると芝居が大げさで・・・というのは、もう過去の話だろう。それでも、勘九郎の演技を見て、何度も「ああ、歌舞伎の人だ・・・」と心でつぶやいた。歌舞伎のもつおもしろさが、勘九郎を媒体にして、テレビの画面からあふれている。
金栗四三という「とつけむにゃあ」人物を描くにあたり、中村勘九郎は必然の役者だったのだろう。金栗の純朴さとクレバーさ、走ることに関する暴走機関車っぷり、それでいて人に慕われる気質などなど。勘九郎の気質と(決して、勘九郎がそういう性格だというのではない。役柄との相性の問題だと思う)、歌舞伎の舞台で鍛えてきた表現方法。それが、歴史上の偉人でもない金栗四三という人を、ドラマの推進力として成功させたのだと思う。
豊か。
それが、「いだてん」での勘九郎を見ていて感じることだ。そして、豊かさの根源には、歌舞伎役者として生きてきた彼の人生そのものがあるのだろう。
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