本屋大賞
上橋菜穂子さん、「鹿の王」本屋大賞おめでとうございます!
書店員さんが売りたいと思う本を選ぶこの企画。
あえて売ろうとしなくても、そりゃ売れるよ…と思うことも多いのですが(苦笑)
今回は、上橋菜穂子という稀有な才能を世間に知らしめるのに有効かなと思ってます。
児童文学出身、ファンタジー作家というだけで、認知度はそれほど高くないという現実に、今更ながら驚いています。
今回の受賞が、そういう変な垣根を越えてくれればと願っています。
上橋菜穂子さん、「鹿の王」本屋大賞おめでとうございます!
書店員さんが売りたいと思う本を選ぶこの企画。
あえて売ろうとしなくても、そりゃ売れるよ…と思うことも多いのですが(苦笑)
今回は、上橋菜穂子という稀有な才能を世間に知らしめるのに有効かなと思ってます。
児童文学出身、ファンタジー作家というだけで、認知度はそれほど高くないという現実に、今更ながら驚いています。
今回の受賞が、そういう変な垣根を越えてくれればと願っています。
「本のプロ」というサイトで、私は読書日記を書いていました。
本の感想をUPすると、いろんな人がレスを付けてくれて。
すごく楽しかったです。
今年の8月でまる5年になりました。
アップした本の感想は、1192件です。
本読みは世の中に多いはずなのに、
意外と身近にはいなかったりするものです。
それに。
私は子供の頃から本が好きだったけど、
本を読んでいると「マジメ~」と言われて、すごく嫌な思いをしました。
だから、「本を読んでいる」と、あまり人に言わなくなりました。
ところが、本プロに出入りするようになってから。
「私と同じ本を読んでいる人がいる!」
「同じことを感じている人がいる!」
「この人の感じ方は、自分と全く違う!」
「敬遠していたあの本は、実はおもしろいらしい!」
そんな驚きと感動の連続でした。
お互いにコメントをやりとりすることで、
本を読むのがますます楽しくなったし、読書の幅が広がりました。
そして、「本を読んでいる」ことを、オープンにできるようになりました。
すると、身近なところに「あ、それ、読んだよ」という人がいたり。
「その本、読んでみたいな。貸して?」という人がいたり。
ネットだけでなく、リアルでも、私の本の世界は広がりました。
本プロというサイトに出会ったおかげです。
その本プロが、閉鎖されました。
ひどい荒らしにあったため、です。
今までも何度かありましたが、今回は度を越していました。
ネットの世界にそういうことがある・・・と知識では知っていました。
でも、自分がその渦中に放り込まれるのは、想像すらしませんでした。
実際に経験してみて感じたことは、
これは「暴力である」ということです。
ネットだからできる、非常に理不尽な暴力です。
その暴力に屈してしまうことが、死ぬほど悔しいです。
そんな理不尽なものに、私たちの居場所がつぶされてしまったことが悲しいです。
ただ、本プロの日記オーナーさんたちは、たくましいのです。
それぞれに次の手を打っています。
考えようによっては、「本のプロ」というサイトに集まっていたエネルギーが、これをきっかけにネット上に広がっていく・・・と言えるのかもしれません。
本プロの閉鎖は、残念でしかたないのですが。
それでも、本プロでの5年間で私が得た財産だけは、
誰にも消すことはできません。
これからも、私は本を愛し、読み続けます。
「友達の気持ちを感じ取って、共感して、それを相手に伝えよう」ということを学習する授業を見ました。
それはとても興味深いものでした。
が、「そんなことまで学校で教えなきゃいかんのか・・・」と、
非常にフクザツな気分になったのも事実。
実際、他人を理解するなんて、とんでもなく難しいことだし。
逆に、人を傷つけるのなんか簡単なわけで。
無意識にやっちゃうこともあるけど、意図的にやってることだって、ある。
私も、最近、意図的な悪意(変な日本語だ・・・)にさらされて、
ちょっと気が滅入っていました。
で、ちょうどその直前に読んだのが、天童荒太「包帯クラブ」。
高校生たちが、自分たちが傷ついた「場所」に包帯を巻くことで、「心の傷の手当て」をする話。
映画化もされましたね。
ああ、これだな、と思ったわけです。
そんな包帯で、起こった出来事が変わるわけじゃない。
でも、「手当て」はできる。
もしかしたら、少しは効くかもしれない。
包帯を巻こう、と思ったのです。
私が傷を負った場所に。
本当に包帯を巻くのは、物理的に不可能な場所なので、
心の中で、包帯をぐるぐると。
ほんの少し、癒された気がしました。
イライラして、悲しかったのが、少し消えました。
自分なりに、この事態を乗り越えたいなと思えました。
人と関わって生きていくのは、時に難しいこともあるけど。
傷を負ったら、包帯を巻いて・・・そうやっていくのも、いいかもしれません。
あれから何年経っただろう。
ちょうどこうやってパソコンに向かっている時だった。
つけっぱなしのテレビが、なんだか妙に騒がしく。
もうニュースの時間なのに、なんでこんなにうるさいの?と思って。
テレビを見た瞬間、目を疑った。
9月11日、深夜。
人類史上最悪のテロ攻撃。
私はその夜、普通に眠れたんだろうか。
次の日、人と話すのが億劫だったことは覚えている。
今、目の前に起こっていることを現実だと認識できないような。
怒りも悲しみもわいてこなくて、自分の中が空っぽになってしまった感じ。
今でも、あの事件をどう受け止めていいのかわからないし。
その後の泥沼のイラク情勢と、大国の傲慢も、
その泥沼に片足突っ込んで身動き取れなくなっているこの国のことも、
考えると気が滅入る一方で。
いつしか「考えない」癖がついた。
最近は、「考えたくない」ことがたくさん増えて、
それらから目を背けている方が楽なのだ。
でも、それではいけないこともわかっていて。
かと言って、自分を追いつめるようなことは考えたくなくて。
・・・私は、いつもそうだ。
そうやって頑なになっている私の内側の扉を、
少しずつ開けてくれるようなエッセイ。
梨木香歩「ぐるりのこと」(新潮文庫)
時に傷つきながら、時に涙しながら、
自分の「無力」を自覚しつつ、それでも考えようとし続ける梨木さん。
どこかの偉人ではなく、自分と同じ時代を生きている人の血の通った言葉。
それが、私に勇気をくれる。
9月11日に、この本を読んだ偶然を、
何かのめぐり合わせだと信じたい。
「マジになるのは恐かった。マジになると結果が出る。自分の限界が見えちまう。マジで勝負をしなければ、なくすものもない。負けてみすぼらしくなることもない。すべて曖昧なままにしておけば、誰に何を言われてもヘラヘラ笑っていられる。」
佐藤多佳子「黄色い目の魚」 (新潮文庫)の一節。
主人公の一人のこの言葉が、痛かった。
この気持ち、すごくわかる。
「マジになる」ことで、得られるものの大きさを知っていてもなお。
ものごとに真剣に向き合うのは、怖い。
大事なものであればなおさら。
ああ、今書いていて気づいた。
怖いと思うのは、それが大事だからなのか。
失いたくないと思うくらいには。
でも、マジにならないと、失わないかわりに、
本当に得ることもできないのだよね・・・。
「黄色い目の魚」は、二人の高校生が主人公の小説。
不器用で純粋な二人の姿が、とてもせつなくて、素敵な物語です。
私は十代の頃、こんなにまっすぐだったかしら・・・。
私が小学生の頃。
スポーツといえば、まず「野球」だった。
放課後になると、男の子たちは校庭で野球をしていた。
息子とキャッチボールをする父親もよく見かけた。
テレビで中継があるスポーツは野球だったし、
「巨人の星」をみんな見ていた。
私はプロ野球より高校野球が好きだった。
一心に野球に打ち込んでいる選手の姿が、
負けて涙している姿が、勝って抱き合って喜ぶ姿が、
とにかく好きだった。
それを決定的にしたのは、5年生の頃、
隣の市の高校が甲子園出場を決めた時で。
甲子園が手の届かない夢ではないと実感した。
もっとも、私は野球部に入れないから、母は
「野球部が強い高校に入れば甲子園に行ける」
と、私をそそのかした。
そそのかされたまま、隣の市の高校に入学し。
しかし、自分の部活に明け暮れ、野球なんて見る暇もなく。
野球部も甲子園までもう一息というところでいつも敗れ。
やはり甲子園は夢だったか・・・と思った高3の夏。
野球部は県大会を制した。
夢は、かなった。
・・・そんなことを思い出しながら、読みました。
あさのあつこ「晩夏のプレイボール」(毎日新聞社)
野球を愛したことのある人なら、きっと何かを感じる物語です。
第137回芥川賞・直木賞決定!
芥川賞 諏訪哲史「アサッテの人」
直木賞 松井今朝子「吉原手引草」
というわけで・・・。
今度こそ!と願っていた北村薫さんは、
またしても直木賞を逃してしまいました(T_T)
べつに、直木賞をとろうがとるまいが、
私が北村薫を好きなことは変わらないのですが。
ここまで力のある作家さんが、
何度もノミネートされて受賞してないというのもね。
東野圭吾さんもご同様でしたが。
賞がすべてではないけれど、
賞ってわかりやすいごほうびだと思うので。
つくづく、残念です。
最近、忙しくて図書館に行けない。
という状態で、ちょっと大きな書店に行ったら、
欲しい本を手当たり次第に買いそうになった。
ここ1~2年、本を増やし過ぎないように気をつけていて、
本を買う時も「本当に欲しいのか?本当に読むのか?」と
自分に問いかけるようにしている。
(それでも、恐ろしいことに本は順調に増えている)
そうして本を買いそうになった時、
最後の歯止めになるのは、図書館本の存在。
「もうちょっと待てば図書館で借りられる」とか、
「図書館から借りてる本をまず読まなきゃ」とか。
先日は、その歯止めがなかったもので、大変なことに。
一応、ちょっと我に返って、何冊かは戻したけど。
それでも買ってしまった本は、以下の通り。
北村薫「玻璃の天」
あさのあつこ「ラスト・イニング」
京極夏彦「前巷説百物語」
近藤史恵「狼の寓話」
平岩弓枝「十三歳の仲人 御宿かわせみ32」
乙一「小生物語」
このほかに、漫画も買ったし・・・。
図書館本という防波堤がないと、いろんな意味で大変なことになる、と認識した次第。
「東京タワー オカンと、ボクと、時々、オトン」を読んだ。
もうだいたいどんな話かは承知していたけど、
オカンがガンでもう余命いくばくもない・・・というあたりから
やっぱり泣いてしまった。
リリーさんのオカンに対する思いと、自分の親に対する気持ちがだぶってしまったり。
でも、たぶん「親」だけじゃなくて。
自分の大切なものを失った経験のある人には、
あの本の中にリリーさんが閉じ込めた切なく悲しい感じを、
きっと理解できると思う。
私は、先代の猫が亡くなった時のことを、鮮明に思い出した。
うちに迷い込んできた彼女は、もともと体が弱かった。
最初の三年くらいは、夏になると死にかけた。
そのたびに奇跡的に持ち直し、14年、生きた。
もともと美貌の三毛猫だった。
年をとっても、毛並みは驚くほどきれいで衰えを感じなかった。
そんな彼女のおなかが大きくなった。
まさか子供がいるわけでなし、いったい・・・と訝しがる母に、
すぐに病院に連れて行くように言った。
ガンだった。
腹水がたまっていて、もう末期だと言われた。
腹水を抜いてもらうと、目に見えて弱った。
歩くのもやっとになり、毛並みもぱさぱさになってしまった。
悲しかった。
もういい年なので、いつかは逝ってしまうとは思っていた。
でも、それが現実のことなのだとわかったら、
どうしようもなく悲しかった。
もっと早く病院に連れて行けば、と後悔した。
その日。
私は、計画していた旅行がお流れになり、実家に帰っていた。
両親は、ちょっと畑に行ってくる、と出かけた。
彼女は、よろよろと私の側に来て、膝の上にはいあがってきた。
体が、冷たいような気がした。
私の膝の上で、長々と横たわり、浅い呼吸を繰り返す。
もう、目は見えていないらしい。
私は、ボロボロ泣きながら、彼女の体をさすった。
もう、この子は死ぬのだとわかった。
どうして母が出かけている時に、私しかいない時に。
静かにみとってあげる余裕は、なかった。
私はわんわん泣いた。
最後に、彼女は体をブルブルッと震わせて、深く深く息を吐いた。
それが、私たち家族が、初めて一緒に暮らした猫の最期だった。
そして、私が初めて立ち会った「死」の瞬間だった。
あの時の言葉にならない思いは、今でも私の中に刻み込まれている。
「東京タワー」は、それを一生懸命言葉に変換した小説だ。
だから、大切なものを失った経験のある人には、
何かしら感じるものがあるのだと思う。
今回、直木賞は該当なし。
残念です。
2006年のmyベスト10に入る2作品が候補になっていたので、
楽しみにしてたんですけど。
北村薫「ひとがた流し」と、佐藤多佳子「一瞬の風になれ」。
どちらもとっても好きな話なので、
候補になっただけでも「おお!」と思いましたが。
賞をとらなくても、好きな話であることには変わりはないので、
ものすごく落胆しているわけではないけれど。
「賞」っていうのは、わかりやすいご褒美だから、
もらえるんならもらった方がいいよね、と思うわけで。
ふと思ったのです。
人の価値観はさまざまだし。
万人に等しく受け入れられる物語なんて、この世に存在しないけど。
作者の思いを受け取ることができたような。
何かが確かに伝わってきたような。
そういう幸福感を味わえる物語と出会えることは、ある。
「ひとがた流し」と「一瞬の風になれ」は、
私にとって、そういう物語でした。
直木賞という肩書きがなくても、ずっと愛し続ける物語です。
きっと、そういう物語と出会えたことが、幸せなのでしょうね。
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